唐から最先端の知識を持ち帰り、文化の礎を築いた「吉備真備(きびのまきび)」
吉備真備とは
吉備真備は、奈良時代(七世紀)の儒学者・政治家・兵学者です。非常に優秀な人物であったらしく、陰陽道や日本固有の文字など、古代日本において、あらゆる文化の礎を築いた人物とされています。
『続日本紀(しょくにほんぎ)』の光仁天皇の項には「唐において認められたのは真備(まきび)と阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)だけだった」といった記述があります。この記述を裏づけるかのように、中国の長安(現・西安市)には、真備の記念碑が建てられました。
吉備真備は当時としてはきわめて長寿で、人間離れした縦横無尽の活躍をしたことから神格化されました。何よりその学識が称えられ、学問の神として篤く信仰されています。とくに囲碁の神とする社もあります。
716年に、遣唐使派遣に際して留学生として入唐し、以後18年間にわたって唐にとどまります。帰路は難航し種子島に漂着、京に戻ったのは735年のことでした。
唐では儒学や陰陽五行説をはじめとする先端科学や兵学、さらには音楽も学びました。同時に、多くの典籍を持ち帰り、朝廷に献上します。
帰国後は、唐で身につけた先端知識によって重用され、聖武天皇・光明皇后の庇護のもと、右大臣の橘諸兄(たちばなのもろえ)、同時期に留学した僧・玄昉(げんぼう)らとともに指導的立場につき、後進の育成に尽力します。
とくに、聖武天皇の皇太子となった安倍内親王、のちの孝謙天皇・称徳天皇に、『礼記(らいき)』をはじめとする経書を教授したといわれています。
しかし、孝謙天皇をも制したという最高実力者、藤原恵美朝臣押勝(ふじわらのえみのあそんおしかつ)によって斥けられてしまいます。
このためか、吉備真備を御霊神として祀る社もあります。しかし吉備真備は決して不遇ではありませんでしたし、憤死して何かしらの祟りをなしたという伝承もありません。
746年に吉備の姓をたまわり、その翌年に右京大夫となります。741年には遣唐副使としてふたたび入唐し、鑑真を連れ帰ります。孝謙天皇の重祚(ちょうそ)である称徳天皇、光仁天皇に仕え、775年に没しました。享年は八十歳前後と思われ、生地の岡山県には、生誕の前夜に星が落ちたと伝えられる井戸などが残っています。
吉備真備の神格
- 学問の神
吉備真備のご利益・神徳
- 海上安全
- 学業成就
- 囲碁の上達
吉備真備の別の呼び方・異称
- 下道朝臣真備
- 吉備真吉備
吉備真備を祀る主な神社・神宮
吉備真備をお祀りする代表的な神社は京都府京都市にある上御霊神社・下御霊神社などを筆頭に
- 大阪天満宮吉備社(大阪府大阪市)
- 御霊神社(京都府京都市)
- 賀露神社(鳥取県鳥取市)
などがあります。
歴史上の人物からうまれた神々
吉備真備のほかに、神として祀られている歴史上の人物を紹介します。