その反骨精神で民衆に慕われ、関東の守護神となった板東武者「平将門」
平将門とは
日本では古くから、非業の死をとげた人物の怨霊・御霊を鎮めるために、多くの神社が創建されてきました。御霊は、人であったときの恨みの念が強ければ強いほど、神となったときのパワーも強大であると信じられてきました。
神道にいう荒霊(あらみたま)は、神の心のなかでも最も強力なものです。制御することは難しい荒ぶる魂を祀りあげることで、守護を頼むという考えとなりました。
こうした御霊のなかでもとりわけ強力とされているのが、平将門です。将門は平安時代中期の武将で、父は桓武平氏(かんむへいし)といい、高望王の孫である良持(よしもち)・良将であったと伝えられています。つまり由緒正しい皇胤(こういん)であったということです。
だが将門は、京の公家社会や朝廷の意向に同化することを嫌います。独立した板東武者として、新たな規範によって生きることを望みました。
青年期は藤原忠平に仕えましたが、このとき蓄積された貴族への反感がのちの将門をつつくります。この反骨の気性は、承平元年(931年)に始まる親族との抗争や、武蔵国の国司・郡司との調停交渉のなかで育まれます。そしてたび重なる軋轢からついに国家に対する反乱分子となってしまいます。
その後、自ら天皇に即位して親皇を名のり、岩井(茨城県坂東市)に政庁を置いて独立国家の樹立を画策します。しかし天慶三年(940年)、藤原秀郷や平貞盛らによって討たれ、さらし首となってしまいます。
将門の抵抗国家は、承平天慶の乱としてわずか数か月で終焉します。しかしこれ以降も板東の民衆の共感を勝ち得た将門は、英雄として篤く支持されます。
将門を祀る神田明神や首塚はよく知られ、今も関東一円の守護神として信仰され続けています。また1980年代後半には、荒俣宏の小説『帝都物語』で取りあげられ、その存在が幅広い世代に印象づけられました。
なお、将門およびその家臣の子孫は、今でも成田山新勝寺(なりたさんしんしょうじ)へは決して参詣しないといいます。これは、かつて将門討伐の祈願を受け入れた祈禱所に、新勝寺が建立されたからだといわれています。
平将門の神格
- 戦の神
平将門のご利益・神徳
- 除災厄除
- 武運招来
- 関東の守護
平将門の別の呼び方・異称
- 相馬小次郎
- 新皇
平将門を祀る主な神社・神宮
平将門をお祀りした最も有名な神社は東京都千代田区に鎮座する神田明神でしょう。
ほかにも
- 築土神社(東京都千代田区)
- 国王神社(茨城県坂東市)
などがあります。
歴史上の人物からうまれた神々
平将門のほかに、神として祀られている歴史上の人物を紹介します。