神霊の宿るもの
神社に祭る神を祭神(さいじん)といいます。神社に祭られている祭神は、仏教寺院の本尊やその他の仏像のように見ることができません。
日本の神々は、いわば日常を超えた力やエネルギーのようなもので、具体的な姿かたちを持ってはいません。
「何事のおはしますをばしらねども、かたじけなさに涙こぼるる」という、鎌倉時代に西行法師が伊勢の神宮で詠んだとされる歌がありますが、祭られている神がどのような神であるのかを見ることはできずなくとも、何かしら普通とは違う感情・感覚を催させる力を持っているのが、神なのです。
だから、私たちはいつも、姿の見えない神に対して拝んでいるのです。しかし神社には、神の姿こそないものの、神の宿ったものが祭られているのです。
神が依りついて宿るものは一般に「依代(よりしろ)」と呼ばれいますが、神社では、「御幣(ごへい)」と「鏡」という形で祭られることが多くあります。
このうち「御幣」は、通常は木の軸の頂部に「紙垂(しで)」と呼ばれる切り紙を取り付けた形式になっています。御幣で重要なのは、木の軸ではなく「紙垂」の方になります。「紙垂(しで)」の形は、多くの場合、紙を四角形に何度か折り返した形となっています。それは、神霊が地上に降りて来る形である雷光(稲光)をかたどっていると考えられています。つまり「紙垂」は、神出現の一つの表現なのです。
紙垂は、御幣のほかにも注連縄(しめなわ)に付けられていることも多くあります。これも、神聖性を表示する役割を果たしているのです。
また神社によっては、そこに宿る神々ごとに異なる姿や形を切り出したり、鯛(たい)や俵(たわら)の形で恵比寿・大黒(だいこく)※大国主神(おおくにぬしのかみ) を表現するなど、神々と縁の深いものを切り出して神々を表現するものが伝えられています。
目には見えないものを映し出す鏡
一方で鏡は、よく磨かれた円形の金属板で、装飾を施した台座に載せられています。
鏡は本来、実在するものを映すのではなく、目には見えないものを映し出すものでした。『古事記』に、天岩戸(あまのいわと)に籠った天照大御神(あまてらすおおみかみ)が、岩戸の外で神々がにぎやかに宴を催しているのを不審に思って外をのぞいた時、すかさず差し出された鏡に映った自分の姿に、誰かほかの神が現れたのだと思ったという話が記されています。
この神話は、鏡が自分の姿を映すものではなく、他の存在を映し出すものであることを示しています。だからこそ、神の依代として用いられているのであす。
ところで、私たち現代人も、時に何か人をたしなめるような場面で「自分の顔を鏡でよく見てみろ」などと言うことがあります。この場合、鏡はその人の顔そのものを単純に映すだけのものではなく、普通は見えない人の内面をはっきりと映し出すものとして、考えられています。見えない存在を映す出す鏡の神秘性が、まだ生きているのです。
御幣や鏡のほかにもっと神社について知りたい人は
ここまでは、神社の依代である御幣や鏡について説明してきました。続いては神社に数多く見る事ができる、摂社や末社について「Q.摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)ってなに?」をご覧ください。
もっといろいろ知りたい方は、下記リンクから神社についての知りたいページをご覧ください。