二十三年間にわたって院政をしき、鎌倉幕府の倒幕を目指した「後鳥羽上皇」
後鳥羽上皇とは
後鳥羽上皇は、後白河法皇の孫にあたる高倉天皇の第四皇子として生まれました。幼名は尊成親王(たかひらしんのう)といいます。四歳で即位し、平安末期の寿永二年(1183年)から鎌倉初期にかけての十数年間、第82代天皇として存位しました。
退位した後も、土御門(つちみかど)・順徳(じゅんとく)・仲恭(ちゅうぎょう)という三代の天皇の在位中、23年間にわたって上皇として院政をしきました。
優れた歌人としても名を馳せ、『新古今和歌集』撰進にも深くかかわり、あらゆる武芸、芸術にも精通していました。
尊成親王が後鳥羽天皇として即位した際は、先代の安徳天皇がまだ在位中であり、即位に必要な三種の神器が手もとにそろっていませんでした。そこで後白河法皇の院宣(いんぜん)という緊急措置が講じられました。この間、2人の天皇が並位するという異常事態が一年あまり続きました。
これが後世まで不評を買うことになります。後白河法皇の崩御後は、自ら新政を行い、院政によって鎌倉幕府の源実朝とともに公武の融和をはかりつつ倒幕を目指しました。
しかし、幕府内ではすでに北条政子、北条義時らによる執権政治が確立していました。これによって、実朝と親しい上皇は孤独を深めていくことになります。
そんななか、実朝が執権・北条義時に暗殺されると、後鳥羽上皇は執権追討の院宣を出し、畿内を中心に武士と僧兵を招集、これが承久の乱(1221年)に発展します。
しかし上皇に味方するものは少なく、時房、泰時らを大将軍とする幕府の大軍の前に完敗しました。この大敗により、後鳥羽上皇は義時の嫡男である泰時によって隠岐島。苅田御所(かりたごしょ)に配流されてしまいます。
さらに、順徳上皇は佐渡に流刑、直接関与はしなかった土御門上皇も、自らの意思で土佐に隠遁します。皇子の雅成新王は但馬、頼仁親王は備前にそれぞれ配流され、仲恭天皇(当時4歳)も廃位されました。上皇は出家して法皇となり、延応元年(1239年)2月に死去しました。
鎌倉にある鶴岡八幡宮今宮は、上皇の怨霊封じのために創建されたものといわれています。
後鳥羽上皇のご利益・神徳
- 諸芸上達
- 安産守護
- 盗難よけ
後鳥羽上皇の別の呼び方・異称
- 尊成
- 隠岐院
- 顕徳院
後鳥羽上皇を祀る主な神社・神宮
後鳥羽上皇をお祀りした最も有名な神社は神奈川県鎌倉市に鎮座する鶴岡八幡宮でしょう。
ほかにも、水無瀬神宮(大阪府三島郡)などがあります。
歴史上の人物からうまれた神々
後鳥羽上皇のほかに、神として祀られている歴史上の人物を紹介します。