三百年にわたる泰平の世の基礎をつくった東照大権現「徳川家康」
徳川家康とは
徳川家康は天文十一年(1542年)12月、三河国岡崎城に松平広忠の子として生まれました。幼名は竹千代といいます。幼くして織田信長の人質となり、また故郷を離れて駿河国の今川家で過ごしますが、父の死後は岡崎城に返されました。
弘治元年(1555年)に元服し、松平家の当主として家督を相続します。桶狭間の合戦では信長を助け、武勲をあげます。以降、信長とともに浅井・朝倉両連合を撃破し、天正十年(1582年)には甲信地方も支配下に置きます。信長の死後、一時は豊臣秀吉と敵対しますが、同14年の講和により臣下の礼をとりました。
慶長元年(1598年)に秀吉が没すると家康の権勢は増大し、関ヶ原の戦いにおいて石田三成ら豊臣側の力を一挙にそいで、実質的な支持と支配権を獲得します。慶長八年には、後陽成天皇から征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開きます。同十年、将軍職を三男・秀忠に譲り、自身は駿府に退いてそこから号令を発しました。
元和元年(1615年)の大坂夏の陣によって豊臣氏が滅亡すると、「武家諸法度」および「禁中並公家諸法度」を制定し、武家政治を盤石のものとしました。翌年には太政大臣となりますが、最後は病没しました。
遺言により遺体は久能山に移送され、吉田神道による神葬祭が行われました。同時に江戸の増上寺(ぞうじょうじ)にも廟がつくられ、天海僧正の唱える山王一実神道によって、東照大権現(とうしょうだいごんげん)の神号が下賜されました。
同三年4月、日光山に改葬され、現在の日光東照宮と呼ばれる社が創建されました。第二将軍・秀忠により造営された社殿は、二十年後の寛永十三年(1636年)、第三将軍・家光によって全面的な改築が行われました。
今日、東照宮に残る絢爛豪華な社殿群は、この当時のものです。新たに建立された木殿や陽明門などは35棟、その後、大名の奉納によって建て増された五重塔や石鳥居は55棟にものぼります。多くの建造物が国宝や重要文化財に指定され、平成十一年(1999年)には、ユネスコの世界遺産に登録されました。
徳川家康のご利益・神徳
- 国家安泰
- 病気平癒
- 安産・子授け
徳川家康の別の呼び方・異称
- 東照大権現
- 東照神君
徳川家康を祀る主な神社・神宮
徳川家康をお祀りしている最も有名な神社は栃木県日光市に鎮座する日光東照宮でしょう。
次いで静岡県静岡市に鎮座する久能山東照宮となります。
歴史上の人物からうまれた神々
徳川家康のほかに、神として祀られている歴史上の人物を紹介します。